2011年12月5日月曜日
癌患者さんのグループと僧侶の座談会
本日、明石市の本松寺にて、「ゆずりは明石(癌患者とその家族を支えるグループ)」と「日蓮宗兵庫県東部社教会」との座談会があった。テーマは『がん患者が宗教家にのぞむこと』であるが、私の参加した分科会ではテーマからそれてしまった。以下、その話題。
・告知とフォロー
病院の包み隠さぬ癌告知に対して病院の心のケアはないことの問題。やはり、心の支えが必要だし家族の絆や意思疎通も大切になってくる。言葉にしなかったが、ここに坊さんは傾聴の役目があると思う。そして、そのための平素からの信頼や親しみが必要だろう。
・深化
癌になって生き方や考え方が変化し深まったこと。切羽詰まった心理から、一日一日が大事で感謝するようになる。手術や抗癌剤治療の苦しく思うようにならない入院から開放されたとき、自由に思うように動けること、何でもないことが有り難いと感じるようになる。そして人に対して優しくなれ、怒りを以前より抑えられるようになった。あるいは目に見えないものの価値、例えば「生き様」の貯金に努めるようになり「心の貯え」をするように努めるようになった。生きているのではなく、生かされているということも覚った。それに対して、行き詰まっていない健常者がもどかしく、考え方の軸を少し変えると幸せになるのにと思うこともしばしばだということ。
・心の整理
印象に残ったのは、最期を迎えたら「徳を積んだ坊さんに送ってもらいたい」という言葉。訳をきくと、「あれもこれも気になり思い残すことがあり、その意味で供養って必要だと思う」という。癌になった身体(魄)は先祖からの借りもの、魂は私のもの。その魂をピュアにして死出の旅路にでかけたいとのこと。「ゆるすって難しい」と言われていたから余程のことがあられたのだろう。そのことを整理してから最期を迎えたいとのこと。私は、たとえそういう瞋恚の心が残っても煩悩即菩提があるという話しをしようとしたがうまくは伝わらなかったと思う。いや煩悩即菩提に行く前の「諦める」の元来の意味と四諦の話、十界互具の途中で話しを止めたので消化不良になられたかも知れない。独演会をするわけにはいかない。予備知識の無い方には難解だろうし。
・業論
癌になるのは悪業によるものかという質問があった。それらに対して巷にいる拝み屋さんとは正反対の純粋な仏教的な見解を私は述べた。因果応報というより正確には法華経十如是にあるように因縁果報だという話。口には出さなかったが、この方々は癌の苦を端緒に目覚めておられる。たといそれが悪い業としても、それが転じて善い業に変じていると思う。「浄名経、涅槃経には、病ある人仏になるべきよしとかれて候。病によりて道心はをこり候歟」※
今回は2回目の参加だったが、当初は気が重かったが杞憂だった。語弊があるかも知れないが楽しく有意義で勉強になった。日本人の1/2は癌になる。決して他人事でない。
※『妙心尼御前御返事』真蹟身延曽存 定本1103頁
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丁寧な感想ありがとうございます。
返信削除私は、感想が書けるほど落ちつてい、話が聴けなかったので、
参考にさせていただきます。
ゆずりは明石様にも、このブログをお伝えいたします。
有り難うございました。
九拝。釋